「ヴァイオリン・ソロ] リリースにあたって

 よく聞かれるのが「ヴァイオリンは何歳からやっているんですか?」という質問なんですが、「4歳から10年くらいクラシックのレッスンを受けました。」と答えると何か納得したような、納得しずらいような、意外なのかそうでも無いような反応に出会います。ここ日本に於いてはヴァイオリン=クラシックの楽器というのが常識で、と言うかそういう状況しか無いと思われている。もうちょっと突っ込んで言うと、クラシック以外の音楽でヴァイオリンを弾いている人も元々はクラシックの教育を受けているはず、と思われている訳です。僕の場合はまぁそうとも言えるし、そうでも無い所が有って、つまりヴァイオリンという楽器を弾くメソッドはクラシックの教育に準じていたのですが、「エレクトリック・ヴァイオリン」を弾くという事に関しては独自にこの道を選び、独学でやってきた。そうこうするうちに「ヴァイオリン=クラシック」とはイメージしづらい所まで来てしまった、特に今回の作品に於いては。

 僕にとってのここ十数年の音楽表現というのは「エレクトリック・ヴァイオリン」を弾くという事に於いての可能性の追求で有ったと思っています。 さて、ヴァイオリンとエレクトリック・ヴァイオリンの違い、それぞれが活きる音楽の違いは何なのか。例えばギターとエレクトリック・ギターの関係性に置き換えると分かりやすいと思うのですが、エレクトリック・ギターの表現の発展には50年代以降のジャズ、ブルースに端を発する、特に60年代後半のロックと、その時代との不可分な歴史が有ったように思います。

  歴史と言えばヴァイオリンにもクラシック以外の使われ方というのは日本以外ではかなりポピュラーなもので、インドや中近東あたりで出来たであろう擦弦楽器がヨーロッパに渡ってヴァイオリンに成り、フォーク/トラッドの楽器として民衆の音楽に使われて、特にアイルランドでは主要な楽器になっていく。そのアイルランドからの移民の多かったアメリカでは他の地域からの移民も有り、更にはアフリカから連れてこられた黒人奴隷の人や原住民のネイティヴ・アメリカンとの色んな意味でのフュージョンが有ってカントリーや、ブルースやジャズが生まれていく。そんな中で様々な音楽でヴァイオリンが使われていきました。更には、西洋音楽のヴァイオリンが逆輸入されてインドや中近東の古典音楽にも使われたり、インド〜中国経由で日本に伝わった擦弦楽器胡弓が明治以降に輸入されたヴァイオリンと「ヴァイオリン演歌」といったストリートミュージックの現場で再会したり。そんな事も有りながら、ロックとかパンクとかを聞いて育った僕がエレクトリック・ヴァイオリンに出会ってしまうのが十数年前だったのです。

  当時、ロック、ジャズの現場にもヴァイオリン/エレクトリック・ヴァイオリンは既に導入されていて、以下の固有名詞はよく比較される人達なのですが、エディ・ジョブソン、ジャン・リュック・ポンティ、パパ・ジョン・クリーチ、デヴィット・クロス、ジェリー・グッドマン、シュガーケイン・ハリス、オーネット・コールマン、ビリー・バング、とかそういった人達がヴァイオリン/エレクトリック・ヴァイオリンで活躍していたのですが、それらの方々の音楽に興味を抱いたりインスパイアされたりはしつつも(特にオーネットコールマン)、ヴァイオリン奏者としてそれを追い求める気もあまり無く過ごして来たような。

 おおむね彼等はソロプレイヤーなんだな、と思っていてそれはそれで素晴らしいのだけれども自分はソロを弾く時以外も、というかソロとかソロじゃないとかではなく今鳴っている音楽に関わって行きたいという気持ちが強く、その上でどのように音楽全体にアプローチしていこうか、という指針は自分で見つけて行くしか無いかもと思っていました。いや、実はもうちょっと詳しく別けるとそういう意味ではパパ・ジョン・クリーチとビリー・バングには影響されていると思いますが、単にヴァイオリンの音量を増幅する為にピックアップを付けてエレクトリック化して、と言う事では無く、エレクトリック・ヴァイオリンを新しい表現として鳴らして行きたい、という思いに対してよりインスパイアされたのは様々なギタリストかなと。サンタナ、スティーヴ・ヒレッジ、ジミ・ヘンドリックス、ローウェル・ジョージ、デュアン・オールマン、ロバート・クワインとか。後は実際に共演して来た鬼怒無月さん、加藤崇之さん、灰野敬二さん、山本精一さんとか。 今思うとむしろ逆にこういった人達の音に触れて、そう考えたのかもしれませんが。

 現在の音楽表現で、エレクトリック・ヴァイオリンの可能性はまだ未成熟だと思います。それは60年代後半のロックとエレクトリック・ギターのような音楽と新しい楽器との不可分な関係性がまだ存在していないからだと思いますが、僕がROVO等で表現している事、このソロアルバムで挑んだ事がエレクトリック・ヴァイオリンの表現の可能性と共にある新しい音楽の一つとして、認識されて広がっていければ幸いだと思っています。

勝井祐二